えびす懸賞論文
えびす懸賞論文
えびす懸賞論文
<「えびす懸賞論文」受賞作品発表>
最優秀論文賞
「水と芸能とヒルコ神」河内厚郎
【講評】
西宮神社の社伝に基礎をおきながら、史料や先行研究に依拠してヒルコの性質を考察することで、神話時代の、ひいては現代にもつながる日本社会の有り様と日本人の精神構造、この場合阪神間モダニズムの内面からの読み解きを試みている。前半では、神話におけるヒルコの物語に注目する。河合隼雄氏の議論を参照し、唯一神の存在しない日本神話に固有の特徴は「中空均衡型」であり、微妙な均衡関係を保った神々の存在があるとする。そして、かかる特徴のなか追放されたヒルコの異端性に注目し、彼はアマテラス=女性の太陽神に対するヒルコ(日の子)=男性の太陽神であり、ギリシャ神話との比較から西洋的自我の萌芽であり、一時は切り捨てられるものの、最終的に彼を祀った西宮は西洋的自我を受容したとして、和洋折衷の阪神間モダニズムの精神性にも接続させている。
後半では、ヒルコともつながりの深い人形遣い・文楽について考察を加える。前半における議論を継承しつつ、文学者によるキリスト教文明の日本における受容にまつわる指摘を引用し、近年上演された、キリストの生涯を描く人形浄瑠璃の事例について、異なる事物を同化していった、阪神間モダニズムのあらわれと評価する。史資料の引用と研究者・文学者の見解を前提に、ヒルコとその伝播に重要な役割を果たしたとされる人形遣い(文楽)という、西宮神社において重要な2つのテーマについて、西洋との対比を織り込みながら、阪神間モダニズムへの新たな視座として導入を試みた内容である。
「水と芸能とヒルコ神」
エビスの前身、ヒルコ
文楽の人形遣いが人形を遣う、床より低いところが「船底」と呼ばれるのは、人形を船上で操り、観衆は陸から眺めていた、古い時代の人形芝居の名残りとされている。
内陸部にルーツのある猿楽や能楽とことなり、内海の沿岸部で育った、傀儡(人形操り)の芸能が水と縁の深かったことは、人形芝居の発祥起源説話からもうかがい知ることが出来る。
「伊邪那岐伊邪那美二柱の神が生み給いし御子」蛭児の神は、三歳になるまで足が立たぬ、不具の子であった。二柱の神は吾が子を哀れと思いつつも、葦船に入れて、茅渟の海(大阪湾)へ流した―
日本神話がそう記すヒルコ神が、大阪湾へ突き出すように伸びる、和田岬(現・神戸市兵庫区)の沖に現れたのを祀ったのが、西宮戎のルーツとされている。
その沿革をさかのぼるべく、西宮神社の御神体が和田岬まで神幸していたことは、福原遷都のあった平家の全盛時代に公家の中山忠親が記した日記『山槐記』や、鎌倉時代に描かれた絵巻物『一遍上人絵伝』等で知ることができる。
『山槐記』では、治承4年(1180)、忠親が新都の福原(神戸市兵庫区)へ向かう途中に西宮で一宿した、旧暦の8月22日、ちょうど神輿の神幸がおこなわれており、その到着時間が午後8時。2時間のちに還幸せられる間、氏子たちの心のどよめきを感じ取りつつ、和田でおこなわれている行事を想像しながら、当夜のことを雄弁に物語っている。
『一遍上人年譜略』には「弘安10年2月詣西宮大明神、神主帰依渇仰」(弘安10年、1287)の記事があり、『一遍上人絵伝』にも正応2年(1289)8月22日の神幸が述べられている。
(出雲の阿国ではなく)踊り念仏で各地を遊行し民衆を熱狂させた、時宗の開祖・一遍こそが歌舞伎の祖であると、歌舞伎俳優の片岡我當はかねてから説いてきた。その一遍は、現・真光寺(神戸市兵庫区松原町)に滞在中、病が篤くなったが、22日西宮の神幸と聞いて、「さらば今日は延べこそせめ(それなら今日は1日命を延ばそう)」と、危篤を1日延ばしたことを『一遍上人絵伝』は記している。
往路は、幾艘もの船を旗や幕で飾って海上ところ狭しと連ね、和田岬から西宮までの陸路六里(約24キロ)をその日のうちに還ってくる海上渡御祭(産宮参り)は、京都の祇園祭が〈陸のパレード〉、大阪の天神祭が〈川のパレード〉なら、〈海のパレード〉と呼ぶにふさわしい祭礼である。織田信長の社領没収により廃絶していたが、平成12(2000)年、約4世紀ぶりに、古儀に近い姿で復活した。翌年には、平安後期の歌集『散木弃歌集』に詠まれた「かざまつり」も再興された。西宮の神は大風を吹かせる神として恐れられていたらしく、「かざまつり」の斎行には、武庫山おろし(六甲おろし)をよく知る西宮人たちの、風災を鎮めようとの願いがあったと想像される。
平家の全盛時代、神崎川の河尻(尼崎市)には藤原邦綱の豪華な別荘「寺江亭」が建っていた。治承4(1180)年3月、高倉上皇が厳島神社へ社参した折、上皇の一行は神崎川を下り、寺江亭で一泊。同日、清盛が差し遣わした「唐船」(宋船)に乗って近くの江を巡っている。翌日は悪天候のため乗船できず(六甲おろしのせいであろうか…)、陸路で清盛の館がある福原へと向かう途中、西宮神社に参拝したとの記録がある。
テレビのワイドショーがこぞって報じる十日戎の開門神事を見る限り、ネアカな印象を受ける「えべっさん」だが、その前身は歴史の翳を秘め謎めいている。出生の秘密を背負ったヒルコとは、はたして何者であろうか?
えびす神社の総本社が鎮座された年代は明らかでないが、戎(えびす)の名は平安時代後期の文献に幾度も記載されている。
神代の昔、茅渟の海(大阪湾)に棄てられ、平安の世によみがえったヒルコは、中世以降、西宮えびす大神として幅広い信仰を集めていった。
ヒルコの原像
《ここにその妹イザナミの命に問いたまわく『汝が身は如何にか成れる』と問いたまえば『吾が身は成り成りて成り合わざる処ひとところあり』と答えたまき。ここにイザナギの命詔りたまわく『我が身は成り成りて成り余れる処ひとところあり。かれ(故)、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合わざる処ににさしふさぎて、国を生み成さむと思う。産むこと如何に』とのりたまえば、イザナミの命『しか善けむ』と答えたまいき・・・・》
(『古事記』より)
イザナギ・イザナミの二神は、海に漂うクラゲのような国土を固めるべく、天の浮き橋から矛で海をかきまわし、出来上がったオノコロジマで結婚。淡路島や大八洲(本州・四国・九州…)をはじめ森羅万象の神をもうけたが、ヒルコだけが日本の神々に受け容れられず追放されてしまった理由について、『古事記』には、女神イザナミの方から先に男神イザナギへ声をかけたことで、最初に産んだヒルコが不具の姿であったため、葦舟に入れられオノコロ島から流された、とある。
『日本書紀』では、イザナミがイザナギに声をかけ、淡路島つぎにヒルコを産んだが、三歳になっても脚が立たなかったので、堅固な楠で造った天磐櫲樟船で流したとあり、中世以降に起こった蛭子伝説は主にこの書紀の説を基にしてきた。
鎌倉時代の『源平盛衰記』になると、ヒルコは摂津国に流れ着いて海を領する神となり、夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)とある。
このようにヒルコとえびす(恵比寿・戎)を同一視する説は、古今集注解や芸能を通じ広く浸透していった。(蛭子と書いて「えびす」と読むこともあり、そう名乗る芸能人がいる)
一方、ヒルコとは日る子(太陽の子)であり、尊い「日の御子」であるがゆえに流されたとする、貴種流離譚に基づく解釈では、日の御子を守り仕えたのがエビスだとするが、日本人の心の古層(集合的無意識)にふみこんだ注目すべき仮説がある。
人形芝居の祭神ヒルコは、ヤマトの神々から疎んじられ、異形の姿で海へ流されたのであるが、閉鎖的な島国の風土には馴染まぬ体質を持っていたのであろうか。
この異形の神を遊行神(マレビト)として迎えいれる芸能が人形芝居だったなら、日本人の規矩を超える情念の飛翔や、人間の役者を上まわる雄大な表現が人形浄瑠璃において可能だったわけがおぼろげに見えてくる…
和田の海上に現れたヒルコ神を摂津国の海浜に祀り人形を操って慰めたという百太夫正清は、のちに淡路島へ渡って、人形浄瑠璃の祖になったと伝えられる。
農耕社会における、男の太陽神
亡き妻イザナミの腐乱した姿を見て地上へ逃げ帰ったイザナギが、黄泉国の穢れを落とすべく禊をおこなうと、左眼からアマテラス、右眼からツクヨミ、鼻からはスサノオが産まれる。イザナギはそれぞれに高天原・夜・海原の統治を委ねたが、母イザナミのところへ行きたいスサノオは、母の故地に近い根の国へ向かう前に、姉アマテラスに別れの挨拶をしようと昇った高天原で粗暴をはたらき、追い出されてしまう。
このように男神が女神に追放されるという神話のありようは、この国が母系性社会だったことの証しだと考えられる。農耕を生業として豊穣を尊ぶ共同体が、大地母神(女の太陽神)を奉じる母系性社会を形成するのに対し、ゼウスのような男の太陽神をいただく遊牧民は父系性社会を構成してきた。
ギリシャ神話では太陽は男性であり太陽の女性的側面は太陽の娘たちの姿をとって表れたが、ながく農耕の民であった日本の神話においては太陽が女性として語られてきたため、日本人の自我は女性の太陽の姿で示されてきた。西洋の神話においては、太陽―男性―意識、月―女性―無意識であるのに対し、日本神話では太陽が女性であり、月は男性として語られてきた。そのため、日本人の自我は男性の英雄ではなく女性の太陽の姿で示されるようになったと、河合隼雄(心理学者、1928~2007)は考えるに到ったのである。(『関西文学』1989年2月号巻頭言「ヒルコに想う」を読んで河合隼雄の日本神話観に興味を持った筆者が、河合隼雄と直接に話して聞き出した)*1
河合隼雄が日本神話で最初に関心をもったのはスサノヲであったという。日本神話で男神スサノオがアマテラスに追放されるのは日本民族が母系性であった故かと考えられるが、ここで興味深いことは、アマテラスに敵対したスサノヲにしても、追放はされたものの出雲の国の文化英雄となり、のちには天孫にその国を譲って、みずからは社のなかに祀られてきた。(日本のヤクザが荒ぶる神スサノオを祀りたがるのは、アウトローを気負いつつ共同体への甘えを残す点で重なるところがあったからかもしれない…)。
これが他の文化圏なら、スサノヲ系の神は「悪」の烙印を押されて抹殺されていたはずなのに、日本ではどちらかが絶対善で他方が悪といった断定がなく、その他の八百萬の神々もそれぞれ所を得て、全体のなかに位置付けられてきた。対立する二者が相手を完全に抹殺せず、バランスを保ちつつ共存してきたのが日本神話の特徴であった―
であるにもかかわらず、ヒルコだけは神々の世界から追放されてしまったのである。
ヒルコがどこへ行ったか、河合隼雄はふれていない。
海に漂うヒルコ神を祀った西宮エビスへと考察を進める前に、文化庁長官となって多忙を極めた河合隼雄は亡くなってしまった。
帰還するヒルコは、異郷の神か…
ヒルコは、「夜の海の航海」を経て、スクナヒコナノミコトまたエビスとして帰ってきたとされる。周辺へ流され捨てられた、未熟な神ヒルコは、中つ国へと帰ってきたのであるが、エビスは七福神のうちのひとりで、夷の字はエミシとも読み、まつろわぬ民族、異民族をさした。
西宮神社にまつられる夷社はオオクニヌシノカミを祭神とし、同社の境内にある三郎社にはオオクニヌシノカミの子のコトシロヌシノミコトがまつられている。これらの神は元来、アマテラスオオミカミ系の神と対立した出雲系の神々である。コトシロヌシノミコトは出雲の美保崎で魚を釣っていたとあり、これが夷の神像に描かれた、釣竿をもって鯛を釣りあげる姿の元になっている。
夷神は、出雲や蝦夷など、畿内からみれば辺境の地にすむ人々の信仰する神であり、海の向こうからきた異民族の神のイメージも根底にはあるようだ。
無為の中心
河合隼雄は著書のなかで、「日本社会が中空均衡構造と中心統合構造の併合をめざす日本のパンテオンにヒルコの再帰を企てるべきだ」*2と述べているが、これはどういう意味であろう。
河合隼雄『日本神話と心の構造』(岩波書店、河合隼雄のユング派分析家資格審査論文)を論じた西村寛子の書評から引用する。
〈「無為の中心」についてと「ヒルコ」をどう捉えるかということのついては、共にこの論文の主要なテーマではなく、20年後のエラノス会議での講演のテーマ「日本神話における隠された神々」で中心的に据えられ、そこで多くを語ることになるのだが、すでにこの資格論文の第一章から「中心でありながら無の基盤であり、その基盤の上に他のあらゆる活動が生ずる」ということを河合隼雄は読み込んでいたし、「ヒルコ」の追放についても印象深くその情景を取り出してきている。ここから「ヒルコ」についての、河合隼雄の深く長い思索がはじまっていったところと推測されるとのことである。…〉
旧首都圏をさす「畿内」に位置しつつ、辺境を連想させる戎という呼び名は奇異にも聞こえるが、摂津という国名にふさわしく、他者(異端)を包摂する開放的な性格を表象するのであろうと一応は解釈出来るにしても、いったん葬った死神を後世になって蘇生させ、これを伝説や信仰の対象にするという事例は珍しい。
エビスは、中世後期に西宮の町民の経済力が増してくるにともない、明るいイメージの神様に変貌をとげていった。*3
宵戎(1月9日)の夕刻、町を巡回するえびすさまが松の葉で目を突かないよう、松の枝を下に向ける「逆さ門松」という風習は、正月の西宮神社拝殿前では今も見られ、昭和の中頃までは西宮の町家に残っていた。(近年、武庫川女子大学などの協力により逆さ門松が一部で復活している)
そんな神を祀るのが、小説家・村上春樹が少年時代に遊んだ西宮神社の杜であり、自身の物語世界(ムラカミワールド)の最良の理解者として、村上春樹が河合隼雄の名を挙げているのは不思議な巡り合わせであろう。
『意識の起源史』を著したエーリッヒ・ノイマンは、西洋において近代的自我が確立していくプロセスの元型的様相を、英雄が怪物を退治して女性を獲得する神話の過程に読み取った。*4スサノヲも八俣の大蛇を退治してクシナダヒメを獲得はするものの、高天原で乱暴をはたらきアマテラスに追い出されてしまうところが、西洋の英雄像とはことなっている。
この西洋と日本の違いを考えるにあたって重要なことは、日本の太陽神がアマテラスという女性の神だということであろう。
河合の指摘を待つまでもなく、「天の岩戸」神話はギリシャ神話のデメーテールとペルセポネの話に似ているし、アマテラスの世界に侵入してくる荒ぶる神スサノヲは、女性ペルセポネを強奪する、地下の神ハーデースに類似している。
しかし、ギリシャ神話に登場する神々の主神が男性神ゼウスであるのに対し、日本神話では女性神アマテラスが中心に位置するため、日本神話全体を俯瞰すると、アマテラスが中心でスサノヲは周囲にいるかのように見えるものの、アマテラスも中心にいるというわけではない。
『古事記』全体を読むと、アマテラスとスサノヲは、対立者として互いに微妙な均衝を保持しつつ、どちらも中心に存在することなく全体性を保っていると、河合隼雄は筆者に直接説明してくれたことがある。(武庫川学院甲子園会館〈旧甲子園ホテル〉における「阪神間モダニズムを考えるフォーラム」でのことであった)*5
それでは、中心に位置するのは何者であろうか?
黄泉の国から帰ってきたイザナギが、川で禊をするときに産んだのがアマテラス・ツクヨミ・スサノヲであったが、実はツクヨミこそが日本神話の中心を占めているのではないか、との結論に河合隼雄はたどりつく。
もっとも『古事記』には、ツクヨミの行為はほとんど記載されていない。ということは、ツクヨミは「無為の中心」ということになり、この日本神話の「中空構造」こそが日本人の意識のありかた、ひいては集団や組織のありかたに反映されているのではないかという、河合の投げかけた問いは、今では広く共有されるようになっている。
一神教においては、中心に至高至善の神が存在し、それによって全体が統合されるのに対し、日本では中心が無為の神をめぐって多くの神々が微妙な均衡関係を保ちつつ存在する。この中空均衡型と中心統合型との比較を通じ、日本人の心のありかたと欧米人のそれとの差に思いをはせながら日本神話を眺めていくうちに、河合隼雄には気がかりなことが出てきた。
西洋的自我の萌芽
それは蛭子(ヒルコ)の存在である。
一神教の場合、唯一至高の神に敵対するものは、悪の刻印を押され、世界の埒外に排除されてしまう。しかし日本のような中空均衡型の場合、八百萬の神々はそれぞれがところを得て全体のなかに位置づけられる。それなのに『古事記』を読むと、ヒルコだけは葦船に入れられて追放されてしまったのだ。何でも受け容れるかに見える日本の神々も、ヒルコだけは受け容れなかったのである。
太陽の女神アマテラスが「オオヒルメ(・・・)」と呼ばれたのに対し、ヒルコという呼び名は太陽の男性神(日の子)を指すのではあるまいか。女性の太陽神に敵対する男性の太陽神ヒルコは、日本の風土に沿わぬ西洋的な自我の萌芽ではなかったか…。
西洋における太陽―男性―意識という図式を考え合わせると、イザナミ・イザナギの子でありながら、棄てられて海上を漂っていたというヒルコは、日本の風土に沿わぬ西洋的自我の萌芽だったのではあるまいか―という考えに河合隼雄はたどりつく。*6
そしてさらに、西洋文化を摂津国に根づかせ、独特な和洋折衷のライフスタイルをうんだ〈阪神間モダニズム〉の淵源はヒルコだったのでは―といった筆者の解釈も浮上してくる。
この追放されて海を漂流していたヒルコ神に同情して、最初に祀ったのが、村上春樹が(筆者も)遊んで育った西宮神社の森であった。
日本における西洋的自我の萌芽であったが故に、ヒルコは異端となり海へ流されたのではなかったかというのが河合の説であったが、阪神の地が部分的にせよ近代の自我、西洋的自我を受け容れた不思議が、なんとなく腑に落ちるのではなかろうか。
生きつづける百太夫信仰
毎年1月5日、西宮神社(えべっさん)の境内にある百太夫社の前では、人形遣いの祭礼「百太夫祭」がおこなわれており、文楽の三番叟の首は、えびすさまの顔になっている。
第二次大戦で焼失した西宮神社の本殿(旧国宝)は昭和36年に再建されたが、阪神・淡路大震災で倒壊。復興に5年を要したが、いずれのときも百太夫社は無事だったことに励まされたと、同社に近い西宮市川東町に居住した吉田文雀(文楽人形遣い、人間国宝、1928~2016)は語っている。
「50年前の空襲のときも西宮神社の本殿は消失してしまったのに、境内の片隅にある、人形芝居の祖神をまつる百太夫神社の祠は残りました。今回の地震でも、本殿は傾き、南宮は壊れてしまって、まわりにも壊れている神殿がたくさんあるのに、百太夫さんは健気にも倒れずに立っていました。私たちの祖神がそういうふうに頑張っているので、負けずにやらなくちゃいけないと思いました」(『サンデー毎日』1995年7月2日号、「神戸からの伝言」)。*7
えびす信仰が全国に広まったのは室町時代以降。西宮の散所村(現・産所町)に住んでいた人形遣いが、えびすさまのご神徳を人形操りに託して全国を廻ったことが大きな要因の一つと考えられている。
人形遣いたちは江戸時代になると西宮の地を離れて淡路島に移り、現在は国の重要無形民俗文化財に指定されている淡路島の人形浄瑠璃や大阪の文楽になったとも云われている。
百太夫神社は、もともと神社の北側、散所村にあったが、江戸時代に境内の現在の場所へ遷座して、かつての跡地(西宮市産所町NTT阪神支社敷地内)には記念碑と太夫の銅像が建てられている。
今年(2022年)の百太夫祭は、徳島無形文化財の「阿波木偶箱まわし保存会」(中内正子代表)が御祝儀舞や三番叟・えびす舞などの人形廻しを奉納し、西宮の「人形芝居えびす座」が新型コロナウィルスを撃退する芝居を披露した。第40回「ふるさと文化賞」(兵庫県芸術文化協会)には、「人形芝居えびす座」を結成してみずから人形を操り、人形芝居や伝統芸能の上演活動をつづける武地秀美(西宮市在住)と、淡路人形の制作・修理技術を提供する「淡路木偶づくり講座」が選ばれている。
百太夫は人形遣いの祖神と見なされる伝説上の人物であるが、人形芝居にとどまらず、阪神間の芸能史上、傑出した百人の芸能者や芸術家(これらを広義の「太夫」と見なす)を顕彰する広場を阪神「西宮」駅前につくろうというのが、筆者の提唱してきた「百太夫広場」の構想である。既に産所町のNTTの前には傀儡師(人形遣い)の像が建てられているから、残り99人を99年かけて顕彰すればよいことになる。村上春樹のような西宮育ちの著名な作家は候補に入るであろうし、市内在住の小川洋子もノーベル文学賞候補に名があがっている。
現状では様々な建造物が建つ阪神西宮駅前広場だが、99年かけてつくるのだから、アントニ・ガウディが建設を始めたスペイン・バルセロナの聖家族贖罪教会(サグラダ・ファミリア)のように、少しずつ整備していけばよい。将来的には狭義の西宮にこだわらず阪神文化史上の偉人を顕彰する広場としたい。
文楽と歌舞伎
歌舞伎と文楽(人形浄瑠璃)は別々の起源を持っているが、18世紀になると両者は融合していき、人形浄瑠璃には傑作が続々と現れ、歌舞伎にも転用されていく。『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』の三大名作をはじめとして、人間の役者ならぬ人形の演じる芝居が日本演劇の主流を形づくり、ギリシャ悲劇やシェークスピア劇にも比肩するカタルシスを近世民衆にもたらした。
歌舞伎学会は昭和62年(1987)に発足したが、いまだに文楽学会というものはなく、歌舞伎の研究も文楽の研究も歌舞伎学会が統括しており、しかも文楽の比重が大きい。「ヒトガタ」(人形)の演劇が、日本古典劇の主流の一画を形成しているのである。
また、ヒルコには、海岸に漂着する死体など漂着物の意味があり、村上春樹の小説にも、子供のころ西宮の海岸で様々なものを拾ったという思い出がたびたび綴られている。
(「海の近くで生まれたんだ」「台風が去った次の朝に海岸に行くと、浜辺にいろんなものが落ちていた。波で打ち上あげられたんだ。想像もつかないようなものが、いっぱい見つかる」「どうしてそんなものが浜辺に打ちあげられるのか、ぼくには見当もつかない」 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』より)*8
モダニズムの表象として
エビスとは、異民族や海外からやってきた異邦人の意味もあると述べたが、海外から訪れる様々な事象を同化してきたモダニズムの表象として、エビス信仰を捉えることが出来るかもしれない。
劇作家の井上ひさしは朝日新聞(1980年6月)の文芸時評で、村上春樹の『1973年のピンボール』をとりあげ、「さらに重要なのは、〈僕〉がその体内にとりこんだピンボール・マシン=外国との、やさしく堂々とした結着のつけ方である。希望、絶望、おごり、へつらいなど、いかなる色眼鏡もなく、この20世紀のコッペリアと一体化し、そして突き離しながら、〈僕〉は、自分と彼女がどう関わり合っているかをたしかめる。こうして〈僕〉はゆっくりとした歩調を保ちながらなにものかになって行くのだ。主人公が海外渡航しない「海外渡航小説」の、これはみごとな収穫といえるだろう」と説いている。
劇作家で評論家の山崎正和(西宮市在住)は朝日新聞の文芸時評(1985年7月)で、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を現代の『神曲』にたとえ、近代的自我の「煉獄めぐり」の物語として読み解いている。
文楽の新しい動き
近年、文楽の太夫や三味線弾き、また歌舞伎俳優にも、キリスト教を信仰する人々が徐々に現れている。
2022年7月6日、兵庫県立芸術文化センター・阪急中ホールにおいて、イエス・キリストの受胎告知から奇跡の復活をはたすまでのドラマを、豊竹呂太夫・作の新作文楽が上演した。聖母マリアの献身と慈愛、キリストの苦悩と癒し、弟子たちの祈り、いくつもの予言と奇跡を人形浄瑠璃で表現したのであるが、これも阪神間モダニズムのひとつの表れであろうか。
文楽の上演に先立ち、大阪大司教区の司教を務める酒井俊弘氏が、カトリック夙川教会(西宮市霞町)で戦時中、憲兵隊に捕らえられ拷問を受けたメルシェ神父と、この教会で受洗した作家の遠藤周作について解説した。
西洋の文化を巧みにライフスタイルにとりこみ、関西モダニズムの主舞台となる阪神間の風土で育った遠藤周作であるが、キリスト教文明は本質的に日本人とは相容れぬものだったと遠藤は語っている。熱心なカトリック信者の母に連れられて教会へ通ったものの、それは自らの意思によって選んだ信仰ではなかった。
「わたしはこの服をぬごうと幾度も思った。まずそれは何よりも洋服であり、私の体に合う和服ではないように考えられた私の体とその洋服との間にはどうにもならぬ隙間があり、その隙間がある以上、自分のものとは考えられぬ気がした」( 遠藤周作文学全集 vol. 12所収,「合わない洋服」(1967))*9
司馬遼太郎は「(遠藤周作は)本当に大真面目なクリスチャンなのですが、それを人に見せるのが嫌で、冗談ばかり言っています」と語り、遠藤が小説で描いたクリスチャン大名、小西行長にふれながら、遠藤の文学を、図式的に解説している。
「…最後まで読んでいまして、これはあくまで私の考えですが、カトリックの話かしらという気がしてきました。私には浄土教の世界のように思えるのです。/勝手に遠藤神学と名づけますが、遠藤神学によれば、そういうずるい人間を神は捨てておかない。いったん幼児洗礼という形で神と縁を結んだ者は、自分が忘れても、神は忘れない。/最後に神はそういう者にも恩寵を与える。刑場で小西行長が神を思い出したのではなく、神が思い出させたのだと。これは神を阿弥陀さんと置き換えてもいい。すべて浄土教に、私は思えます」(『週刊朝日』平成9年5月9日16日合併号)*10
夙川カトリック教会の創立者であり遠藤に洗礼を授けたブスケ神父と、二代目メルシェ神父は、戦時中、無罪の罪で逮捕されている。ブスケは獄中で拷問にあって亡くなり、メルシェ神父は生きてフランスへ帰り、戦後も遠藤と親交を保った。二人のいずれかあるいは双方が、『黄色い人』という小説で、背教者デュランの罪を甘んじて引き受ける、ブロウ神父の原形になったと考えられている。
モダニズムを主に論じられてきた阪神間文化にも、あらたな歴史的視座が求められている。その行方を占うのは「ヒルコ神」であり「水と芸能」であろう。
参考文献
*1「ヒルコに想う」
(『関西文学』1989年2月号)
*2
1976年(『中空構造日本の深層』
河合隼雄「「個」をささえるもの」『季刊アスティオン』49号
*3〈雑誌論文〉
米山俊直(2002)「えびす信仰の三源泉―海神・市神・福神のルーツとその融合―」『大手前大学社会文化学部論集』第2巻p139―152
*4『意識の起源史』(紀伊國屋書店 改訂新装版)
エーリッヒ・ノイマン 著
林道義 訳
*5『神話と日本人の心 日本人の心性の深層を日本神話から読み解く!』(岩波書店)
河合隼雄 著 河合俊雄 編
*6『日本神話における隠された神々』
(岩波書店)河合隼雄 著
田中康裕 高月玲子 訳
河合俊雄 訳/解説
*7 サンデー毎日 1995年7月2日号、「神戸からの伝言」
*8 村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
*9 遠藤周作文学全集 vol. 12所収,「合わない洋服」(1967))
*10
『週刊朝日』平成9年5月9日16日合併号
〈雑誌論文〉
〈紀要論文〉劉福徳(1997)「〈論文〉蛯子考」、『比較民俗研究:for Asian folklore studies』、号15、P85―107
〈紀要論文〉
福島秋穂(1967)「ヒルコ神話をめぐって」、『国学研究』36巻、P27―37
〈紀要論文〉
大岡小霧(1986)「ヒルコの誕生と放流をめぐる一考察」、『語文論叢』、14号、p20―35
〈紀要論文〉
中村一基(2008)「童子神の変容:水蛭子から夷三郎殿へ」、『岩手大学教育学部研究年報』51巻(1号)、P13―21