ブログ Blog

わたしはこんなふうに考えます

2026年5月20日

ブラックホールの存在を証明
 
ノーベル賞の受賞者は国立大学の出身者ばかりだが、私学出身者で受賞寸前までいったケースがある。 
1990年代、中井直正(なかい なおまさ)氏(1954〜)は或る銀河を観測することになり、今までの常識ではありえない観測データを得ることが出来た。このデータを検討し、物理学で考え得るあらゆる可能性を潰していった結果、最後に残ったのがブラックホールであった。
この研究結果は、従来よりも100万倍も高い精度で、ブラックホールの存在を証明した論文として、英国の科学誌「ネイチャー」に掲載された。
中井氏の発見から約2年後。ドイツ人研究者らが中井氏と同程度の精度で、数年後さらに千倍の精度の確証でブラックホールを発見し、2020年のノーベル物理学賞を受賞した。
ノーベル委員会は精度の高さを評価したわけだが、この功績は中井氏に帰せられてもよかったと思う。
中井直正博士(現・筑波大学教授、前・国立天文台教授)は、関西学院大学の物理学科を卒業した天文学者で、専門テーマは、銀河の構造と進化、ブラックホールの観測的研究。
銀河中心での巨大ブラックホールの発見とその研究により、仁科記念賞と日本学士院賞を受賞している。
ブラックホールは宇宙空間に存在する天体の1つ。極めて高密度で、極端に高い重力を持ち、近傍の物質や光が脱出不可能な天体である、といっても素人にはよくわからないが、宇宙が誕生してから138憶年。ビッグバンから元素の誕生、銀河・恒星の形成を経て、太陽系と地球が生まれたという壮大な宇宙史に想いを馳せてみよう。


2021年

「大阪は江戸時代から天下の台所と呼ばれた」と歴史の教科書にはよく記されているけれども、これは間違いである。
「天下之台所」と直接記述した文献は存在せず、大正時代に幸田成友(幸田露伴の弟)が『大阪市史 第二』等の叙述で用いた言葉が一般に広まっていった。それがあたかも江戸時代から当然のように存在したと誤解されてきた。
日清日露の戦争から第一次大戦にかけての好況で経済都市としての性格を意識するようになり、それが固定観念ともなって、文化都市・情報の中枢都市といった多元的な性格を標榜しなくなったことが、都市のグレードを低下させてきたのではないか。「思い込み」が大阪の前途を狭めてきたともいえる。
大阪は古代には国際的な港町(難波津)であり、何度か首都(高津宮、難波宮…)にもなった。中世には四天王寺(日想観…)や大坂(石山)本願寺が宗教都市の相貌を呈し、近世初頭(豊臣時代)には政治軍事首都となって、江戸時代には商都となり文化都市(文芸・演劇・学芸…)としても栄えた。
単なる経済都市ではなかったのである。



2025年3月

2月13日、栗田明子氏の葬儀が西宮であり、作家の小川洋子氏も参列された。 
 栗田氏は甲南女学校を卒業後、商社・出版社を経て、西ドイツのケルンを本拠に、日本の図書を欧米の出版社に紹介する仕事に従事。1984年には日本著作権輸出センターを設立、著作権輸出のパイオニアとなった。 
かつて日本文学の御三家といえば谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫だった。70年代頃から安部公房や大江健三郎、井上靖や遠藤周作らにも焦点が当たるようになり、90年代に入ると村上春樹氏を筆頭に日本文学はメジャーな存在となったが、その最大の功労者は栗田明子氏である。世界40ヵ所以上、累計1万3千件に及ぶ作品を契約管理し、河野多恵子・筒井康隆・小松左京・須賀敦子といった文学者を紹介してきた。
そんな努力が評価されて平成9年にはフランス政府が芸術文化勲章シュバリエを授与(筒井康隆氏も同時に受賞)、書誌学上の功績に与えるゲスナー賞も受賞しているが、国内では知られていないのを残念に思った私は井植文化賞や兵庫県文化賞などに推薦してきた。令和元年には私の司会で栗田・小川の両氏と日本文学の国際化について論じた(9/7、ルナホール)。   
「感性豊かな表現力を海外に伝えたい」と栗田氏が熱望した小川氏の小説が英語圏で読まれるようにしたのも彼女で、『薬指の標本』(泉鏡花賞)は独特の作風が多くの愛読者を獲得、フランスで映画にもなっている。
晩年を芦屋で暮らした栗田氏の生涯は『海の向こうに本を届ける 著作権輸出への道』(2011 昌文社)に詳しい。




2021年7月

 歌手の弘田三枝子が亡くなって、7月で1年になる(73歳で没)。 
 私は20代の頃、東京は赤坂あたりで酒を飲み食事もしていた。ある夜、行きつけの店が閉める間際、背の高い女性が入ってきて、店のママさんと話すのを聞くともなく聞いていた。
 後で知るのだが、それは拘置所から釈放されたばかりの女性で、さるジャズギタリストの奥さんであった。夫婦の間には子供もいたが、夫と不倫中の弘田三枝子に別れてくれと頼んだものの聞き入れられず、弘田の住むマンションのエントランスで、果物ナイフで背中を3カ所刺した。幸い怪我は軽かったが、芸能スキャンダルとして大騒ぎになった。 
1961年にデビューした頃の、パンチの利いたはつらつたる歌声は国民的アイドルと呼ぶにふさわしく、ポップスクィーンの名をほしいままにした。それが「人形の家」(作詞・なかにし礼)のヒットにより、大人のしっとりとした歌い方に脱皮。歌も円熟味を増しつつあった。後年、私はシャンソンのプロデュースなどを手がけるようになって、ゲストで出演する弘田三枝子と間近に接する機会があったが、かつての健康的なイメージはなかった。彼女自身に大きな変化があったのだろう。
さて、私が出会った、あの夜の女性はその後どうなったのだろう…。



2024年1月

岩手県奥州市の黒石寺(こくせきじ)で千年以上つづく「蘇民祭(そみんさい)」は、旧暦の正月、下帯姿の男衆が五穀豊穣と無病息災を願って護符が入った麻製の蘇民袋を奪い合う。日本三大奇祭や三大裸祭りに数えられてきたが、来年が最後となる。「関係者の高齢化と担い手不足」が理由と住職は話すが、胸毛の男性が写ったポスターの掲示をJR東日本が拒否したことも影響しているようだ。   
越中おわら節の甘美な旋律と哀調を帯びた胡弓の調べにのって踊りを披露する、越中八尾(やつお)の「風の盆」(富山市八尾)には3日間で25万人前後が訪れる。外国人もふえる一方で、小説やドラマの舞台にもなってきた。現在のように世界的な祭になるまでには関係者の長い鳩首協議があり、土俗的な部分を改良していく努力があった。
いまや空前の観光大国となりインバウンドで活気づく日本だが、そうなると内輪で愉しむだけの祭では済まされなくなった。評価の高い祭には、男だけでなく女の目を通した審美眼も求められるようになった。 


2026年2月

札幌でアジア初(欧米以外で初)の冬季五輪が開かれた1972年。当時イギリスの放送局へ出向中だった、朝日放送(ABC)の社員の人から聞いた話。
日本では雪が降って積もるという事実が、驚きをもって話題になったというのだ。それまで日本といえば南国(亜熱帯)に近いイメージで、暑い国より寒い国のほうが頭がよいと思われていたらしく、日本には雪国があると知って、「それでアジアで唯一の先進国になったのか」と噂したという。
その頃は世界的な催しといえば欧米ばかりで、日本だけが例外的に参入していた。そんな時代を思えば日本の相対的地位は下がったかもしれないが、文化観光大国としての我が国は最先端を走っている観もある。
世界中に「日本ファン」がふえている中、外国人排斥を説くのは如何なものか。



2021年1月22日 

幻の摂津京、小林一三(逸翁)の街づくり
  
摂津国の中央部、()()()
 
阪神の地は明治以前、「津の国」「摂津の国」と呼ばれた。かつての首都圏を表す「畿内」の一角を占める旧国名で、現在の大阪・神戸両市の大半、大阪府北西部の「北摂」地域、兵庫県東南部の「阪神間」地域を含む。
現在その中央部は大阪空港のある伊丹市である。摂津国の中心部を表す「(つじ)(いしぶみ)」〈伊丹市北伊丹1丁目89〉が、西国街道と多田街道の交差する辻に建っている。記録によればこの地は旧摂津国の各国境からほぼ等距離〈七里〉にあり、「摂津のへそ」の位置にあったことを示している。
 
 幻の摂津京

 
伊丹市庁舎の屋上から周囲を見晴るかすと、北摂・長尾山系の山々が屏風のように北に聳え、そこから流れ落ちてくる武庫川と猪名川が南進して大阪湾に注ぎ、西は六甲山系、東は千里丘陵に挟まれ、ほぼ三方を高地に囲まれているのは何処か京都盆地に似ている。

帝都を意味する「京」という漢字を分解すると、「亠」は北方の山、「小」は南方へ川の流れる様を表し、中心部の「口」は御所またはそれを核に広がる市街地となるが、平安遷都で「此国山河襟帯、自然に城を作す」と詔にあった通り平安京の置かれた京都盆地はまさにそうだが、伊丹を中心に据えた地形も「京」に近いことが、伊丹から四界を眺めると実感できる。この阪急電鉄の宝塚線・今津線・神戸線に挟まれた地(阪急平野とも呼ばれる)は、現在の大阪府下の池田・豊中・箕面、兵庫県下の宝塚・尼崎・西宮・川西にまたがる地域で、現行の府県を越えた一つの都市圏と見做すことが出来る。 

阪急グループの創始者、小林一三は、平安京にならい「幻の摂津京」を想定して街を造っていったのではあるまいか、そんな空想を愉しむこともできる。平安末期の福原遷都の折、摂津国の中央部に当たる平野部、現在の伊丹を中心とした()()()に遷都したほうがよいとの意見が公家から出された。そうなっていれば「摂津京」が実現していたかもしれない。 

もし摂津京が出来ていたなら、尼崎の塚口あたりは中京、能勢電車の沿線は洛北。平野の中央部を貫通し、柿衛文庫やピッコロシアター、アルカイックホールなど文化施設が並ぶ幹線道路は朱雀大路となるべき道であったことになる。西宮北口と西京極には西宮球場と西京極球場、ともに阪急ブレーブス(現オリックス・バッファローズ)のスタジアムがあったのも偶然と思えぬ気がしてくる。この地の北東、能勢から妙見にかけては、平安京を守る比叡山に見立てることも出来よう。池田・五月山の東方斜面で「大」の字を灯す「がんがら火祭り」は、京都愛宕神社のご神火をまつり「大文字」に点火する。

京都大学が洛東の吉田山にあるように、摂津京の東の山麓、待兼山には大阪大学が移ってきた。小林一三はさらに、摂津京の西の山麓に関西学院など私学を誘致。キリスト教伝道家にして優れた建築家であったウィリアム・メリル・ヴォ―リズの設計になる美しいキャンパス街を六甲山系の山々を背に造っていった。
そんな摂津京のなかでも、京都なら「北山」の位置に当たるのは宝塚であった。

 
逸翁の見果てぬ夢 
 

ここでさらに想像を膨らませてみたい。
京の北山文化は、室町に幕府を構えた足利義満の治世に花ひらき、義満の邸は「花の御所」と呼ばれたが、都の西北には別邸として壮観な金閣寺を造営、世阿弥を寵愛して能のパトロンとなった。中世に興った能楽は現代なら少年ミュージカルとなろうか。

かたや、みずから線路を敷いた郊外都市に室町(池田市)という日本で最初の分譲住宅地をつくり、武庫河畔の宝塚にパラダイスを築いて(阪急宝塚駅から歌劇場へ到る道は「花のみち」と呼ばれる)少女ミュージカルを創始した小林一三を「近代の足利将軍」に見立てることもできるのではなかろうか。
宝塚が市制となった昭和29年、初代宝塚市長と小林一三が新聞紙上で対談し、ここで小林は「武庫川を保津川のように観光地化したい」という腹案を述べている。

上方商人の信仰あつい清荒神や中山寺といった神社仏閣に恵まれ、伝統園芸のメッカである宝塚は「摂津の北山」と呼ぶにふさわしい。京都北部には本阿弥光悦らの芸術家村があったように、「摂津京」のその位置に当たる清荒神や売布神社の周辺には、昭和を代表する建築家の村野藤吾や仏画家の石川晴彦が住み、日本画家の橋本関雪も別邸を構えた。
京都盆地と摂津平野は「水」に恵まれる点でも共通している。前者は伏見、後者は池田や伊丹、灘五郷などが名水に恵まれ名だたる酒処となった。

小林一三(号は逸翁)は若い頃、文士を志した。実際に小説も書き、自身が池田市民であったことから「池田畑雄」の名で少女歌劇の台本を書いた時期もあるが、結局は、近代日本にふさわしい町づくりを自己の芸術品としたのである。


摂津京
   ← 京都と阪神(摂津京)の対比図 クリックしてください 


2025年3月

皇居前の帝劇(帝国劇場)が建て替えのため休館した。今の帝劇は1966年に誕生した2代目で、3代目のお目見えは2030年度の予定。運営する東宝(()()塚)の「この劇場をつくるという揺るぎない意志で臨んでいる」という言葉は心づよい。
 ここで上演された『屋根の上のヴァイオリン弾き』(主演・森繫久彌)は、翻訳された日本語が西洋音楽に乗せても不自然に聞こえなかった、おそらく最初のケースであった。
『風と共に去りぬ』では、ホンモノの馬車を舞台に走らせて話題になった。
私の印象に残っているのは、宝塚歌劇を退団した上月晃の『マイフェアレディ』。上月はこの後パリのミュージックホール「フォリー・ベルジェール」で花形スターになっている。
近年はミュージカルの殿堂として有名だったが昔は歌舞伎も上演していたし、市川染五郎(現・松本白鸚)と故・中村吉右衛門の兄弟による『風林火山』や、山田五十鈴の嫣然とした淀殿や松旭斎天勝(奇術師)の役々も懐かしい。 



2006年2月

朴氏はあたりを警戒するようにゆっくり近づいてきた。いつどこに北朝鮮の工作員が潜んでいるか分からないからであろう。
朴甲東氏に会ったのは2005年の夏。東京・神田駿河台、山の上ホテルのロビーだった。当時編集していた文芸誌を本格的な言論誌に近づけたかった私は、各界の人士にインタビューを試みていた。
  
朴甲東氏は、1919年、慶尚南道に生まれた。50年には南朝鮮労働党地下党総責となり、朝鮮戦争後に北朝鮮へ入って北朝鮮文化宣伝省ヨーロッパ部長に就任するが、国家転覆を企てた容疑で逮捕され粛清されるところを、フルシチョフのスターリン批判の影響を気にする金日成の配慮で、辛うじて生き延びた。しかし金日成の独裁は終わることなく、57年に脱北した朴氏は日本へ渡り、北朝鮮民主統一救国戦線(反金日成の亡命政権)をモスクワで結成(92年)、常任議長に就任した。 
 
 朴氏がいうには、1937年6月4日、朝鮮咸鏡南道の普天堡を襲ったのが、ホンモノの金日成であった。同年11月18日付の京城日報〈朝鮮総督府機関紙〉は、共匪金日成の死を報じている。
45年8月、朝鮮は日本から解放されて、金日成の部下だった朴金喆もソウルの刑務所から釈放された。
一方、スターリンの眼鏡にかない、ソ連の戦車で凱旋。伝説的な人物だった抗日ゲリラの雄・金日成になりすまし、北朝鮮をのっとった男の、本名は金聖柱。戦後われわれが知る金日成である。 
以下、朴甲東氏の言に従うと―
1937年5月、朴金喆は満州の長白県の山塞で、日本の軍服を着た、背の低い、眼鏡をかけた金日成から、普天堡を道案内する地図を渡され、協力工作隊を組織するよう指示を受けて実行する。
45年10月14日、平壌運動場でのソ連軍歓迎大会で金日成が紹介されるとあって、ソウルの共産党中央本部が新聞記者に撮らせた金日成の写真を見せたところ、朴金喆は即座に偽者と断言した。
朴が会った金日成は、自分より10歳ほど年上で、当時45~6歳になるはずだったが、ソ連軍が連れてきた金日成は、本物とは似ても似つかぬ、背の高い、33歳の若僧であった。中国での生活が長かったせいか、朝鮮語はたどたどしかったという。(中国の要人と会うときは通訳を介して話したが、本当は中国語に堪能で、通訳が仲介する間、稼いだ時間で熟慮していたという)
 
ソ連軍が捏造した金日成は、1912年、平壌に生まれた。12歳のとき(1924)父に連れられて満州に移住したが、2年後に父はテロリストに殺され、うるさい父親を亡き者にしてくれたテロリズムに金日成は関心を抱く。(金日成自身は臆病な人間だったと朴氏は証言している)  
36歳で寡婦になった母親の康氏は、14歳を頭に3人の子供を抱えて暮らしが出来ず、中国の安図県公安総司令穆漢章の妾となった。義父のおかげで金日成は中国国籍を取得。財産家の子弟が通う吉林市の毓文中学に入ったが、馬骨という馬賊の部下になって、中共系に移った。
1940年、日満軍に追われた抗日連軍は散らばってソ連へ逃げた。金日成と妻の金正淑はソ連の国境警備隊に逮捕され、日本のスパイと疑われて拷問を受けた(そのため中ソ対立のとき中共に寝返ったという)。
金日成より1カ月ほど前に釈放された金正淑は、満州時代の上官・金策(キムチャク)と会い、のちに金正日を産む。わが子か?と疑う夫に、風邪でひどい咳をして早産したと金正淑は弁明したが、金正日は金日成に似ておらず、2年後に生まれた次男は金日成そっくりだった。
金日成が次男を溺愛するのを妬んだ金正日は、6歳のとき、2歳下の弟を庭の池で殺したと朴氏は言っている。
1993年3月16日号のモスクワ「ノーバヤ・プレミヤ」誌が、金正日は金日成の養子と暴露しても、金日成は黙認した。
94年6月、米国の元大統領ジミー・カーターが平壌を訪問。金正日に会いたいと要求したが、金日成は会わせなかった。自分勝手で、不孝で、経済を破綻させた、金正日の代わりに、自分の血統をつぐ金平日に跡を継がせようとして金日成は殺されたと、朴氏は言う。その真偽はさておき、あんなに元気で、やる気満々に見えた、金日成の突然の死に、合点がいかぬのは私だけではあるまい。
北朝鮮建国のミステリーについて詳しく知りたい方には、「赤旗」平壌特派員をつとめた萩原遼(「上方芸能」代表・木津川計氏の弟)の労作『朝鮮戦争』を薦めたい。
私が編集していた「関西文学」の編集部はかつて大阪市生野区林寺にあり、界隈は在日コリアンがもっとも多い地域で、南北コリアの秘密組織が入り乱れて錯綜する状態は現在も続いている。
朴甲東氏は、私が面会した数年後に襲撃され、一命を取りとめたが、その後は消息が途絶え、現在は検索しても出てこない。
終戦時、済州島にいた私の父は、金日成が偽物だとよく話していたが、いつしか日本人の間でそんな話も聞かれなくなった。 










2026年4月

イラン人は自国の名を、「アーリア人の国」という意味で「イラン」と呼び、アラブ世界とは一線を画してきた。  
アーリア人とは、紀元前3千年紀、イラン高原およびインド亜大陸へ北方から移住したインド・ヨーロッパ語族の集団で、「高貴な」「気高い」を意味するサンスクリット語「アーリア」を自称したとされる。この語の複数形「Ayirānem」がイランの由来である。西洋ではイラン南部ファールス州(ペルセポリス及びその地域)の古名「パルス」にちなむ「ペルシャ」で知られてきた。(漢字では波斯(はし)と書き、日本は飛鳥時代から交流があった)
そんなプライドの高いイラン人が外国に出ると、同じアーリア系の欧州人のようには重んじられていないと知ってショックを受けるようである。   
信仰の自由を保障するような帝国を紀元前に築いたという栄光の歴史を思えば、イスラム原理主義が幅を利かせる、今の国情に不満を抱くイラン国民は少なくないようだ。
かつてイラクとの間に8年も続いた戦いのために反体制派は弾圧され、今回のイスラエルとアメリカによる侵略も自由を求める反体制派の抑圧に利用されている面がある。
 

2021年10月4日 ドゴール
子供の頃はアメリカのケネディ大統領の人気が高く、暗殺されたこともあってその生涯は伝説化していったが、わたしはフランスのドゴール大統領に興味があった。
シャルル・ド・ゴールは生粋の軍人で、筋金入りのナショナリストだったから、日本ではアナクロ政治家と思われている向きがあった。しかし、第二大戦はフランスにとり実質上は敗戦に近かったにもかかわらず、それを戦勝国に仕立てあげ、五大国の一角に食い込ませた手腕はしたたかであった。  
「文化立国」を意識した戦略も際立っていた。日本もフランスも超大国にはなれないのだから、如何にして一級国家、文化大国として生き残るかに知恵を絞ったのがドゴールであった。著名な文学者のアンドレ・マルローを文化相に招き、次々と打ち出す文化政策に私の耳目は惹きつけられた。マルローは大の親日家でもあった。 
ドゴール本人が登場する映画には、『ジャッカルの日』や『パリは燃えているか』、冬季五輪のドキュメンタリー『グルノーブルの13日』(邦題は『白い恋人たち』)等がある。



2020年3月18日

 こんなふうに考えてみてはどうだろう。
 容姿に恵まれなかったけれども、持参金があったので結婚でき、まずまず人並みの幸せな人生を送ったという女性が昔は周囲にいたものである。そんな女性に対し「人生はカネで買えない」などと言えるだろうか。
 被差別部落に生まれ育ったがゆえに、就職差別の少なかった医師への道を幼い頃から志し、国公立大学の医学部へ進学することで社会的地位を築いた人に対し(実際そういう人はいた)、「人生は学歴で決まるわけじゃない」などと説教できるものだろうか。
何かしら人様に自慢できるような取り得がなければ、世間から認めてもらえないし、食ってもいけない。
 わかりきった話である。
 だからこそ、勉強はできなくてもスポーツは得意だとか、人を笑わせるのがうまいとか、何がしか一芸に秀でるという具合に努力もする。
その昔、河原乞食とさげすまれた歌舞伎役者たちが、今や芸術院会員となって憧憬されるようになったのも、能役者に負けまいと励んだ芸道修行のたまものであった。
 
 差別はもちろん良くないことだとしても、人間社会が飽くことなく作りだしてきた様々な差異の体系―すなわち血統・家柄・身分・地位・貧富・学歴・権力…それら人為的に作りだされた差別というものがまったくない社会を想像してみると―愕然とする。
持って生まれた肉体的差異で決定的に差がついてしまうからだ。美しいオンナや逞しいオトコばかりがもてはやされることになってしまうからである。絶世の美女や英雄豪傑が真っ先に主役として登場する「神話」には、そんな原始社会の赤裸々な真実があぶり出されている。「美」と「力」が断然優位に立つ原始社会に逆戻りしてしまうとしたら、努力する余地などなくなってしまう。それこそ救いのない社会となってしまう。
 それにしても、今の世の中、金や地位など特権を手に入れた人と、ほとんど何も得られなかった人との差が、まだまだ歴然とし過ぎている。したがって、さまざまな価値体系、あえていうなら、差別の種類がもっと豊富な社会なら、それだけ救われる可能性も多くなってくる…のではなかろうか。既存の差別とやらも少しずつ相対化されていくのではないか。そうした多様性・選択可能性を社会構造の中にたくさんプールできるということが成熟社会・先進社会の証しではあるまいかと、かねてから私は考えてきたのである。
 神話にしても、英雄美女が出尽くすと、(大国主命のように)とんちの利く知恵者や(天宇受売命のように)パフォーマンスのできる個性派が、あらたな主役として登場してくる。
価値観の多様化という人間社会の進化のプロセスが、(民族や部族の集合的無意識の体系である)神話という物語にも反映されているのだ。

(この文章は2016年に書いたものであるが、同様の趣旨はいくつかの雑誌(教育雑誌「ニューライフ」2011年9月号など)にもっと以前から発表していたものである。)