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わたしはこんなふうに考えます

 こんなふうに考えてみてはどうだろう。
 容姿に恵まれなかったけれども、持参金があったので結婚でき、まずまず人並みの幸せな人生を送ったという女性が昔は周囲にいたものである。そんな女性に対し「人生はカネで買えない」などと言えるだろうか。
 被差別部落に生まれ育ったがゆえに、就職差別の少なかった医師への道を幼い頃から志し、国公立大学の医学部へ進学することで社会的地位を築いた人に対し(実際そういう人はいた)、「人生は学歴で決まるわけじゃない」などと説教できるものだろうか。
何かしら人様に自慢できるような取り得がなければ、世間から認めてもらえないし、食ってもいけない。
 わかりきった話である。
 だからこそ、勉強はできなくてもスポーツは得意だとか、人を笑わせるのがうまいとか、何がしか一芸に秀でるという具合に努力もする。
その昔、河原乞食とさげすまれた歌舞伎役者たちが、今や芸術院会員となって憧憬されるようになったのも、能役者に負けまいと励んだ芸道修行のたまものであった。
 
 差別はもちろん良くないことだとしても、人間社会が飽くことなく作りだしてきた様々な差異の体系―すなわち血統・家柄・身分・地位・貧富・学歴・権力…それら人為的に作りだされた差別というものがまったくない社会を想像してみると―愕然とする。
持って生まれた肉体的差異で決定的に差がついてしまうからだ。美しいオンナや逞しいオトコばかりがもてはやされることになってしまうからである。絶世の美女や英雄豪傑が真っ先に主役として登場する「神話」には、そんな原始社会の赤裸々な真実があぶり出されている。「美」と「力」が断然優位に立つ原始社会に逆戻りしてしまうとしたら、努力する余地などなくなってしまう。それこそ救いのない社会となってしまう。
 それにしても、今の世の中、金や地位など特権を手に入れた人と、ほとんど何も得られなかった人との差が、まだまだ歴然とし過ぎている。したがって、さまざまな価値体系、あえていうなら、差別の種類がもっと豊富な社会なら、それだけ救われる可能性も多くなってくる…のではなかろうか。既存の差別とやらも少しずつ相対化されていくのではないか。そうした多様性・選択可能性を社会構造の中にたくさんプールできるということが成熟社会・先進社会の証しではあるまいかと、かねてから私は考えてきたのである。
 神話にしても、英雄美女が出尽くすと、(大国主命のように)とんちの利く知恵者や(天宇受売命のように)パフォーマンスのできる個性派が、あらたな主役として登場してくる。
価値観の多様化という人間社会の進化のプロセスが、(民族や部族の集合的無意識の体系である)神話という物語にも反映されているのだ。